2019年12月20日(金) 22:25 櫻谷翔吾

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返信ありがとうございます。

こちらの返信が間を置いてしまい大変申し訳ありませんでした。

今後、もう少しペースをあげてレスポンスしていくよう心がけます。

 

今回「上演を副産物として考える」ということを全体に共有しましたが、それは上演作品の完成を第一目的として創作を行うのではなく創作のプロセス自体を作品と捉え、

より意識的に稽古場の進め方を考えられないだろうかということを思考したからでした。

しかし上記のように言葉によってその意識を表明したことが、そもそも上演とはなんぞやということを考えるきっかけの一つになっていること、当然のことなのかもしれませんが、面白いなと感じています。言葉を使うことで自分の意識や感覚が規定・区画されていくことも言葉の持つ作用の一つですね。

 

さて、「鑑賞者とどのような体験を共有したいのか」という曽根さんの問いと、曽根さんが印象に残っている作品の共有を受け、

考え始められたことがあるのでそのことを共有しながらのレスポンスとしていければと思います。

 

最初にTOKYO2021での檜皮一彦さんの作品について、僕も若干ですが拝見しました。

時間の都合でゆっくりと鑑賞することができず、具体的に作品を受け感じ取れたことのようなものは残念ながらなかったのですが、

曽根さんの意見を受けつつ、あの場でどういうことが起こっていたのかを思い返しながら次のようなことを思いました。

まず鑑賞者の我々が作品を受ける際の最初のフィルターとして「食事」という生活から飛躍のない行為が設定されていたことは、曽根さんのいうその場で実践されていることの内実との我々の鑑賞体験の間の距離を開き、そのズレを認識した時の効果をより高めていたのかなと思います。

また、そのインスタレーション作品(上演?)で行為をしている人たちには特別演出は加えられず(あくまでそう見えたということですが)、その周りの映像や装置、つまり環境によってささやかに(直接的ではないがしっかりと)鑑賞者と作品を接続するための仕組み(演出)が施されていた点が作品の成立の仕方として素敵だなと感じていました。

なぜ上のような2点に関心をよせるのかといえば、そのことが鑑賞者が作品を鑑賞するための空間をしっかり作品の構造の中で確保しているように感じるからだと思います。その空間がしっかり作られている所では、(しっかりというのは、直接的に鑑賞者に演出を加えるのではなく、鑑賞者を囲む空間を中心にデザインすることで作品への橋を作りながら、鑑賞者の体験を邪魔しないような隙間を持った空間つくりのこと) 鑑賞者はその作品をきっかけとしながら、鑑賞している自分の体感や意識と向き合えるようになると感じており、今回の作品ではそのような空間を鑑賞者と共有したいのかもしれません。そしてそれは、曽根さんのいう「感情とエネルギーのすべてが役者と舞台に集中していて、それを固唾を飲んで見守るという類の演出」ということとは確かに違うことになってくるだろうと感じています。  

また、少し違う話になるかもしれませんが僕は美術館に居るのが好きで、それは作品を通して(作品がきっかけになり)自分が考えていることが整理されたり、普段当たり前で気にしていなかったことが、作品の視点という角度が加わることで新たに考えるようになったりという効果を得る可能性を感じているからだと思います。そしてそういうことが、可能になるのは作品の情報や解釈、距離の取り方を自分のペースで掴めるからかもしれません。

曽根さんが挙げてくれた豊島美術館に僕は行ったことないのですが、曽根さんの話を聞いてそこでは上で述べたような個人が自分の空間を仕切り、作品と触れ合う時間を無意識に調整できるような場所になっているのかなと感じ興味を持ちました。

他2つのポーランドで見たという作品を含めた曽根さんの作品に対する感想と、これまで少し話した中で、

曽根さんが上演作品を考える際には、その作品の構造がどのように意識的に構築されているのかに対してとても意識的なんだなと感じました。

曽根さんの「遊行権」を拝見した時にもその構造的な強さを感じ面白いなと感じていたのを思い出しました。

そして、その構造への感覚の強さを受けて僕のほうでもう一つ思い出した舞台作品があります。

それはTPAM2017に参加した、山下残さんの「悪霊への道」という作品なのですが、曽根さんご覧になったことあります?

https://www.tpam.or.jp/2017/?program=road-to-evil-spirit  

https://artscape.jp/report/review/10133382_1735.html 

 

この作品はコンテンポラリーダンサーの山下残さんがバリ舞踏を師匠から習うということを基本ベースとして設定しており、

その過程を上演作品として扱うのですが、この作品も作品全体の構造が強く設定されその強さが魅了的な公演でした。

またここで設定された「習う」という基本構造は、檜皮さんの「食事」という基本構造とも近しいものがあるのではないかと思えます。

どちらも、私たちにとって特別乖離のある事象ではなく、作品に入っていく段差をスムーズにしているという点で共通しているのではないかと。

また、スムーズに入った分、その後作品内部の体験に変化が起こった際、よりその変化を強く認識するということはあるのではないかという気もしました。ただ、ある気もしますがなんかそれは勢いで言ってしまいそうな気がするのでちょっと自粛。

しかし作品の導入を生活からかけ離れていないもので設定することの効果はあるのだろうと感じており、それがどのような効果になるのか検討しながら、

今回私たちが「言葉」を扱う上で、なにが導入としてきっかけになりうるのか考えていきたいです。

 

櫻谷