2019年12月12日(木) 12:38 曽根千智

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櫻谷さん

それでは、私からの「復路」1通目をお送りいたします。

とても丁寧な大きな弧を描いて、パスを受け取った気持ちでいます。

 

曽根さんはなにか、「書き言葉」と「話し言葉」に対する感覚の違いってありますか?

 

「書き言葉」と「話し言葉」、感覚の違いはあります。個人差はありますが、みんな少なからず「喋るほうが苦手だな」とか「書くほうが得意だな」と小さな不得手があると思うのですが、私はどちらかというと「書くほうが好き」な人間なので、不得手な「喋る」に対してがちがちに武装してしまいます。何からどの順番で話し始めるのか、どこで相手の関心を引いてくるのか、どうやって交渉するのかなど、人間と人間が話すという行為には様々な利害関係が後ろにあることも多い、と無意識に思い込んでいるからです。『ハーバード流交渉術』という本が一時期サラリーマンの間で流行しましたが、喋るという行為はやはり社会生活の中でだと、何か目的を持つことが多いように思います。一方、書くという行為は伝達スピードが遅い分、相手に意思決定や判断を迫ったり、情報を矢継ぎ早に与えたりすることは、物理的にありません。ここが安心。書いたとて読まれないことだってある。でも、それでもいいんです。受け手が何かしらに強制されず、自由を大いに担保されている点で、書くという行為は櫻谷さんの好きな上演とつながってくる感覚なのかもしれません。

 

さて、本題に移りましょう。上演のスタイルや公演について、好きなもの。

 

■ 豊島美術館

http://benesse-artsite.jp/art/teshima-artmuseum.html

いきなり演劇でないのですが、内藤礼さんの作品です(訪れたことありますか?)

豊島美術館と行っても他の美術作品は何もなく、ただコンクリートの冷たい床に座って風に背中を押されて転がる水や、揺れる糸くずなどを延々と見る、ただそれだけの作品です。

この作品の空間づくりがおもしろいと思ったのは、その場にいる人が「誰も同じものを見ていない」という状況です。水音に耳を澄ませてうずくまっている人もいれば、大の字になって揺れる葉を見つめる人もいます。ミクロにもマクロにも幾つものレイヤーが折り重ねられていて、誰の焦点もひとつに合わず、でも同じ場所を確かに共有している。

人間の内側へ向かう目と外側へ向かう目が同時に拡張されていく感覚があり、不思議でした。まさに、研ぎ澄まされる、という感覚です。空間体験として強くこころに残っています。

 

■ 『可能性は風景の前で姿を消す』/“La posibilidad que desaparece frente al paisaje(Possibilities that disappear before a landscape)” El Conde de Torrefiel

https://tokyo-festival.jp/2019/possibilitiesdisappear

 

今年の東京芸術祭参加作品ですが、日本上演前に実はポーランドで観てきました。

この作品はテキストと表象するパフォーマンスが完全に分離しています。テキストがアーティストの性暴力について語るとき、直接的に性暴力を裸体で表現することはしません。裸の男性が4人手をつなぎ、様々なポーズを取りながら「連帯」する様を見せています。なお、テキストはドキュメンタリー形式の客観的な記述になっており(〇〇年のどこどこで、〇〇という人が〇〇をしたところ〜)、感情的なセリフ読みを極力廃したものになっています。

この作品が印象的だったのは、やはり「表象しない」という徹底的な姿勢にあったと思います。要するに「何かしらの意味を持つ行いを観る」という演劇らしき行為を全力で拒絶している。舞台に立っている4人の男性は物語とはまた別のところに普通の人として暮らしていて、その彼らの(少しへんてこな)暮らしがなぜかテキストの下に「配置されてしまった」。その配置されてしまった風景を我々はどのアングルでどこまでを画角に入れて捉えるのかを委ねられている。

誰もが携帯で簡単に動画を撮れる世の中ですが、カメラを握らされる怖さを痛感した作品はこれが初めてでした。(一緒に観に行ったポーランド人は終始爆笑していました。彼女にはコメディに見えたのかもしれません)

 

■ Trans Trans Trance 演出:Kamilė Gudmonaitė

http://trwarszawa.pl/spektakle/trans-trans-trance/

 

これもポーランドで観たダンスインスタレーション作品(分類がわからないのでひとまずこう呼びます)。1シーンが5分くらい、それが20くらい集まって作品になっています。この作品は題名の通り、トランスジェンダーの生き辛さを扱ったものなのですが、その生き辛さを当事者の問題にせずに政治の問題として扱う仕組みが素晴らしかった。

例えば、トップモデルのインタビューのシーン。「これまでにランウェイを歩いたブランドは?」と聞かれたモデルが「エルメス、グッチ、ディオール…」とメゾンの名前を列挙したあといきなり小さなゲップをします。最初は恥ずかしがる女優に観客がほんとうにゲップを間違えて本番中にしてしまったんだ、と思って笑って、大丈夫だから我々は気にしないから続けよう続けようと促します。でも実はこれも演技で、最後に大きなゲップを観客に憚ることなく一発お見舞したあと字幕に「トップモデルのうち醜形恐怖症のため摂食障害でいまなお治療が必要な人数は〇〇人」と表示される。醜形を形作ったのは紛れもなく「気にしないで」と声をかけた観客でした。

こういう仕掛け(もちろん様々な方向からです)が施されたシーンが20もあれば、今までトランスジェンダーを他人事だと思って構えてどんなもんか知ってやろうと椅子に座っていた観客も、もう他人事では処理できなくなります。片棒を知らぬ間に担がされています。

この舞台はポーランドでも大変な評判を呼びましたが、同時に途中離席の数も多かった。

大胆で勇気ある演出で、日本ではここまで突っ込んだ作品を観たことがなかったので、とても感銘を受けました。と、同時に離席してしまった人々が何を苦しく思って離席してしまったのか、彼らの話に耳を傾ける空白はなく、ここに作品の強さと弱さの両方を見ました。

 

と、私も3つ最近よく思い出す、好きな作品を列挙してみました。

 

鑑賞者にとって上演の時間が、作品に“出会う”時間というよりも、作品を“通過”していくための時間として存在していたということでしょうか。

 

そうですね、「並列で走っている別個の独立した世界を横目で垣間見る」というようなニュアンスでしょうか。ちょうど、下町の長屋に住んでいる家族が隣の家族の様子を遠耳で聞く、というような。少なくとも感情とエネルギーのすべてが役者と舞台に集中していて、それを固唾を飲んで見守るという類の演出に惹かれているわけではなさそうですね。

 

その感覚は、目の前で上演されている内容だけではなく、その作品に触れる前後の時間、及びそれが上演されている場所(空気感・時間)に大きな影響を受けているのだと思います。

 

そうだと思います。だからこそ、どこでどのタイミングでどのような流れで(ここが一番大事ですが)「何を上演とみなすのか」を考えなければなりませんね。

例えば、今年のTOKYO2021という美術展(https://www.tokyo2021.jp/bizyututen/)で、両腕欠損の障害者の方がただコンビニのナポリタンを食べる、その対面で健常者が同じ動きを真似しながら食べるというインスタレーションがありました。これは本人たちはただ食べているだけなのですが、捉え方を揺らすための仕掛けがあります。

・食卓は2mの位置に設置されており、鑑賞者は常に見上げている

・食時は平常時の0.5倍速でそもそもとても遅い

・食卓での会話はほぼなし

・食卓の回りにディスプレイがあり、着替えや移動など他の動作について動画に収めたものが併置されている

「食べるという営みが両腕欠損だと実際にどうなるか」を直接見たことがある人は少ないと思うのですが、その事実に対する発見はすぐに理解され、その後に「彼の居住まいの確かさ」に惚れ惚れする時間がきます。ちょっと危ないと思ったのですが、見上げる配置だったり、極端にゆっくりな儀式的な雰囲気だったり、見たことのない四肢の動きだったりがあいまって、なぜかとても神聖な行いに見えるのです。

要するに、この作品は何を上演していたかでいうと端的に「食事」なのですが、内実とその鑑賞体験はかけ離れています。このように配置や空間設計でできること、表現できることは大いに変わってきます。

鑑賞者とどんな体験を共有したいのかを軸に、何に挑戦したいかを決めていきましょう。

 

長くなりましたが、以上、1通目をお送りします。

 

曽根